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人生朝露

人生朝露

人のかたち、渾沌のかたち。

荘子です。
荘子の続き。

Zhuangzi
『俄而子輿有病、子祀往問之。曰「偉哉!夫造物者、將以予為此拘拘也。曲僂發背、上有五管、頤隱於齊、肩高於頂、句贅指天。「陰陽之氣有?、其心間而無事、?足而鑑於井、曰「嗟乎!夫造物者,又將以予為此拘拘也。」子祀曰「汝惡之乎?」曰「亡、予何惡。浸假而化予之左臂以為?、予因以求時夜。浸假而化予之右臂以為彈、予因以求?炙。浸假而化予之尻以為輪、以神為馬、予因以乘之、豈更駕哉。且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也。此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之。且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉。』
→子輿が病気になった。友人の子祀が訪ねたところ子輿はこう言った。「偉大なるかな。造物者は。見てみよ、私の身体をこんなに曲げてしまったよ。背中は折れ曲がり、五臓は上に上がり、顎がヘソよりも下に下がり、肩は頭より高く、髪のもとどりが天を指している。陰陽の気が乱れてしまったのだな」井戸に映る自らの姿を眺めながら「なんとまあ、ひどくひん曲げたことだ」と、動じる様子もなく彼は呟いた。「君にとってつらいことだね」と子祀が言うと、子輿は「いいや、とんでもない。もし造化がこの左腕が鶏にしてしまうなら、私は天下の夜明けを告げさせよう。この右腕を弾弓にしようものなら、鳥を撃ち落として炙って食べよう。尻を車輪に、心を馬にするならば、君を乗せて旅に出よう。馬車を支度する必要もないさ。時が来たら生まれ、時が来たら死ぬ。この命に順応していれば、哀楽の感情なんてつけ入る隙はない。古人の言った県解の境地だ。自分を解放できないのは、外物の形に囚われているからだ。物が天の理に勝てないのは、今に始まった話ではない。私は造化を憎んだりはしないよ。」

・・・『荘子』という書物には、たくさんの障害者が登場します。先天的な障害も後天的な障害も含めてありまして、足が不自由であったり、背骨が曲がっていたり、ハンセン病の患者であったり、多指症であったり、欠指症であったりと外見上の差別を受けやすい人々が数多く登場します。しかし、彼らが自らの境遇を呪ったり、誰かのせいにしたりはしません。こういうところから、荘子は、運命論者とか因循思想家だとか言われるみたいです。

Zhuangzi
『彼正正者、不失其性命之情。故合者不為駢、而枝者不為跂。長者不為有餘、短者不為不足。是故鳧脛雖短、續之則憂。鶴脛雖長、斷之則悲。故性長非所断、性短非所續、無所去憂也。意仁義其非人情乎。彼仁人何其多憂也。且夫駢於拇者、決之則泣。枝於手者、?之則啼。二者或有餘於數、或不足於數、其於憂一也。今世之仁人、蒿目而憂世之患。不仁之人、決性命之情而饕富貴。故意仁義其非人情乎。自三代以下者、天下何其囂囂也。』(『荘子』駢拇 第八)
→かの至正の人は、性命の情を失わない。指の骨がくっついて指の数が五本でなくともそれを足りないとしたり、指の骨が多くてもそれを余計なものだとはしない。短すぎるとか、長すぎるとかいった判断を下さない。鴨の足が短すぎるといって、鴨に足を継ぎ足してやっても鴨は嫌がるだろうし、鶴の脛が長すぎるとして、それを切ったら鶴は悲しむだろう。生まれもった性分に長いだの短いだのとして手を加えるものではない。本来の憂いはそこにはないからだ。仁義とは、人間本来の情に根ざしたものとはいえないのではないか。仁義を称揚する人のなんと憂いの多いことだろう。指がくっついてしまった者の指を切り離そうとすれば、その者は泣くだろう。指が枝分かれしている者の指を噛み切ろうとしても、その者は泣くだろう。この二者は、指の数が多いことと、少ないことの違いがあれど、悩みとしては同質のものだ。仁の人は、世の中の不幸を目の色を変えて追い求め、不仁の人は、性命の情を捨てて、富貴を追い求めている。故に私は(人はこうあるべきだという)仁義の価値基準は、人の本来の情ではないと考えている。夏王朝以来、天下はなんと口やかましくなったことだろう。

差別を生む温床としての人為的な価値観に彼の批判の矛先は向いていますが、人為によってあるがままの命を歪めることということを、荘子は望みません。
本間丈太郎。
『人間が、生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましい』って考えているんですよ。

Zhuangzi
『南海之帝為?、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。?與忽時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善。?與忽謀報渾沌之徳、曰「人皆有七竅、以視聽食息、此獨無有、嘗試鑿之。」日鑿一竅、七日而渾沌死。』(『荘子』応帝王 第七)
→南海にシュクという帝、北海にコツという帝、中央に渾沌(コントン)という帝がいた。
シュクとコツとは、渾沌(コントン)の領土で出会い、渾沌は南北からきた彼らを温かく歓待した。そのもてなしのお礼をしようとシュクとコツは相談した。「人間の顔にはだれにも(目に二つ、耳と鼻にも二つ、口に一つ)七つの穴があって、それで物を見たり、音を聞いたり、食べ物を食べたり、呼吸をしたりしているが、この渾沌だけにはそれがない。お返しに渾沌にその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで二人は一日に一つずつ穴を開けてやった。しかし、七日経つと渾沌は死んでしまった。

荘子に登場する「渾沌七竅(しちきょう)に死す」というのも、おせっかいな人為が加わることによって、渾沌が死んでしまうというお話なんですが、

身体的な側面で見るならば、
百鬼丸の生い立ち。 
手塚治虫の『どろろ』の百鬼丸が最も分かりやすいと思われます。
父親が生前に妖怪と契約を結び、身体器官を奪われた形で生まれた百鬼丸。目、耳、鼻、口の全てが穴だらけで、手足も備わっていない、まるで芋虫のような状態で描かれています。一般的に想像される「渾沌」のイメージとしては、これが最も近いと思われます。

百鬼丸の肉体を造る寿海。 五官を取り戻す百鬼丸。
その姿から産みの親に捨てられた百鬼丸は、寿海という育ての親に、「仮の目」「仮の耳」「仮の鼻」「仮の口」「仮の四肢」を精魂込めて造ってもらってはいますが、それは「かたち」を与えられただけ。本当の五官は、百鬼丸自身がが命がけの戦いの中で、取り戻していきます。『どろろ』は、非常にグロテスクで、子供受けは悪い作品でしたが、「こころ」と「からだ」と「かたち」の問題としては重要なものです。

・・・脳と脊髄の一部のみ生身で、残る全てのパーツを機械化した草薙素子はこういいます。

『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』。
「便利なものよね。その気になれば体内に埋め込んだ化学プラントで、血液中のアルコールを数十秒で分解してシラフに戻れる。だからこうして待機中でも呑んでいられる。それが可能であればどんな技術でも実現せずにはいられない、人間の本能みたいなものよ。代謝の制御、知覚の鋭敏化、運動能力や反射の飛躍的な向上、情報処理の高速化と拡大・・・電脳と義体によって、より高度な能力の獲得を追求した挙げ句、最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合じゃないわ。」(GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊より 草薙素子のセリフ)

今日はこの辺で。


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